2020年御翼2月号その3

         

家族と引き裂かれた人々のため国と闘った男―― 小川 岟一(よういち)さん

  北海道の最北端・宗谷岬から、北43キロに位置する島サハリンは、かつて『樺太(からふと)』と呼ばれた日本の領土だった。明治末期、日露戦争に勝利した日本は、島の南半分を統治、樺太の開拓を国策とかかげ、移住を奨励、南樺太は40万人の日本人が暮らす豊かな島であった。
 戦前の樺太で生まれた小川岟一(よういち)さんは、8歳のとき一家で小樽に戻った。その二年後、太平洋戦争が勃発、終戦間際にソ連は樺太に攻め込んできた。日本政府は自国民を船で緊急避難させ、戦後の引き上げ事業で日本人はみな帰国したはずだった。しかし、実際には300人以上の日本人がサハリンに取り残されたまま帰国できなくなっていた。現地人と結婚するなどの事情で帰国を断念した人たちである。そして、米ソの冷戦が激化、サハリンへの一般渡航は禁止となってしまう。しかし一九八〇年代後半、社会情勢の変化によって、樺太出身者の故郷訪問事業「平和の船」が始まった。50年ぶりに故郷を訪れた小川さんは、日本に帰りたがっている日本人が未だにいることを知り、「平和の船」の参加者たちと『樺太サハリン同胞一時帰国促進の会』を設立した。
 小川さんは、北海道が地元の国会議員・五十嵐広三氏の事務所を訪れる。五十嵐議員は当時、ソ連とパイプがあった社会党の議員であったが、サハリンでの日本人の存在を把握していなかった。その後、厚生省の担当者に当たってくれたのだが、結果は「サハリンに日本人がいる」との認識なし、というものだった。その頃、ソ連国内では、ペレストロイカと呼ばれる運動が進み、経済的・社会的な改革に伴い、国民の海外渡航制限が緩み始めた絶好機でもあった。小川さんは、サハリンの知人が作成した日本人名簿を持って厚生省を訪れ、彼らの一時帰国を援助してほしいと願い出た。すると、厚生省はサハリンに取り残された日本人がいることを把握はしているようだったが、彼らは自ら望んで残った者であり、ほとんどが既に外国籍になっているからと、彼らを日本人とみなしていなかった。厚生省の役人は、彼らのために税金は使えないと言う。ところが、行き詰まっていた小川さんのもとに、五十嵐議員から知らせが入った。5年前、厚生省が密かにサハリンにいる日本人を調査し、作成した未帰還者名簿を入手したという。それによれば、175名のうち127名までが日本への帰国を希望すると答えていた。厚生省は都合の悪い結果を隠していたのだ。小川さんはこの名簿を持って、厚生省と再び交渉、そしてついに政府がソ連との交渉に加え、一時帰国の往復の旅費を援助してくれることになった。
 一九九〇年五月、12人の第一次一時帰国団が新潟空港に到着、忘れられた日本人が祖国の土を踏んだ。3年後、小川さんは新聞社を定年退職するが、その後もサハリンからの帰国事業はライフワークとして続けた。現在もサハリン在住の日本人とその親族たちが、一時帰国で日本へやって来る。これまで30年間で、のべ三五〇〇人以上が訪れた。やがて、一時帰国を何度か経験したサハリンの日本人の中には、永住帰国に踏み切る者も現れた。永住者の一人はこう言う。「小川さんはサハリンの人には生きる希望をくれた。みんな神様だって言ってる」と。
 五十嵐広三議員は生前、三浦綾子さんと親しく、三浦綾子記念文学館の設立に尽力した。また、小川さんの葬儀の映像を見ると、棺(ひつぎ)の上には白い十字架のような飾りが確認できた。

フジテレビ「アンビリバボー 家族と引き裂かれた人々のため国と闘った男」2020.1.30放送より



 御翼一覧  HOME